カメラ
カメラはとっても人間の情操教育に役立つものだと思う。
使う人ひとりひとり、その数だけ作品が生まれる。花を撮ってもいい。人を撮っても建物を撮ってもいい。恋人や家族、自分を撮る事だって尚良い。作品を創り上げると言うのは何にも代え難い経験だ。
しかし、勿論問題点もあげれる。それは、近年ますます増加の一途を辿っている盗撮。
本来なら人生に彩りを加えるための物を、人を汚すために使う事は卑劣極まりない。
そして僕が一番に伝えたいことが一つ。
"カメラは他人と競うものでは無い"
という事だ。
個性という言葉がある。それと同じで感性などは人それぞれ違うものだ。100人の人がいるとする。70人がいいと評するものがある様に20人がいいとするものもある。そして6人がいいとするものもあれば4人がいいものとするものもある。所詮は多数決。そんなものはあってはならないものなのだ。
写真を撮るにあたって、一番重要なポイントは本当にそれが撮りたいものなのか。なのである。
昨今、カメラはより安く購入でき、また、スマホのカメラでも本物のカメラと見間違うほどに高画質、高品質な写真を撮ることができる様になった。とても便利なことだ。
人が写真を撮る理由は様々だ。友達と会った記念。家族で旅行に行った記念。恋人とデートをした記念。ここには沢山の記念がある。
しかし、それと同時に本当に撮りたいものがわからなくなってきているのではないか?
友達に自慢したいから。みんなが撮ってるから。誰かに見て欲しいから。
僕もそうなのだが、撮りたいものから、撮らなくてはならないものに変わりつつあるのではないだろうか。
カメラとは、写真とは、インスタやツイッターなどのSNSで承認欲求を満たすためだけの道具なのだろうか。
僕が思うに、カメラを手に入れた人達の根底には、忘れたくない、この景色をいつまでも残しておきたいと思う願いがあったのではないだろうか。
誰も最初から、他人に見て欲しい。褒められたい。いいねが欲しい。そんな事は考えていなかったのではないか?
カメラとはただ単にどこまでも自分の為でいい。所詮は自己満足の世界でしかないのだ。
しかし、ここまで誤解を生む言い方をしてはいるが、僕が言いたいのは、誰のためでもなく自分のためにその瞬間を残して欲しいと思う。
僕はカメラを作った人間でもなければ、カメラの神様でもない。しかし、それでもわかる。これだけカメラが普及して、何兆枚、それ以上の写真ができているのだ。被らないわけがない。
それでも被ってもその写真が、自分が撮った写真が、誰か知らない人が撮った写真が自分にとっての最高の一枚であることが重要なのだ。
カメラマンという職業がある。カメラが好きな人は一度は夢見たことだろう。
しかし、炎上を恐れずに言うなれば、カメラマンとはカメラを持った人のひとりひとりがなれてしまうのだ。
どんなにお粗末なカメラでもいい。どんなにカメラに対して、写真に対して知識が乏しくてもいい。決して上手くない写真でも。
目はレンズになり、指はシャッター。頭はフィルター、その足は三脚になる。カメラなどは撮った写真を現像するための媒体だとでも思えばいい。主役はカメラじゃない、自分だ。
カメラを使い、写真を撮るのに必要なのは自分という概念と自己満足だ。
当然、自己満足を得るためにする勝手な破壊や創造は悪しきものだ。これを言うと捉え方によっては誤解されるが、僕らはルールの中では自由なんだ。
他人の評価とか流行なんてものは糞食らえだ。
大事なのは自分の中で満足いく瞬間だ。
そしてたまにでいい、世間から注目されるものじゃなく、道端に咲いた誰も見向きもしない様な花を撮って欲しい。足を伸ばさなくともアートは、最高の瞬間は見方によってはそこら辺に簡単に落ちているものだと気付いて欲しい。
自分だけの1いいねを探して欲しい。
合言葉は自由と自己満足。そして最高の一瞬だ。
以上!ばいび〜