過去と未来

少し前に「2ちゃんねる」で、

"過去の自分に一通だけメールを送れるとしたら"

と言うスレがありました。

当時、中学二年生くらいの僕は過去に対する後悔はあまりなく、あったとしてもあの時に早く寝ていればよかった。とか、あの時にお年玉を貯金して、今度出るゲームを買うべきだった。とか、そんな小さく、子供染みたものでした。

 

このスレを知ったきっかけは、YouTubeでした。

学校が終わり、部活も辞めてしまった僕は家に帰ってからもやることがなく、YouTubeで動画を漁るくらいしかやることがなかったのです。

そこで、いくつかアーティストの公式動画を流していた時に、"flumpool"と言う有名なバンドの、"残像"と言う曲が耳につきました。

 

「この身を削っても、と想える人さえもいつかは会えなくなる それが人生と割り切れるものなど思い出のどこにも書いてないよ。」

 

「誰もが、涙を知ることで大人になる。」

 

この2つの歌詞が多感で、生き方に迷っていた自分に突き刺さりました。

それまで、僕はクラスでも「これはこうだからしょうがない。」

「こうなっちゃうんだろうから、努力も無駄になるけど、ああだから諦めよう。」

そんな冷めた気分でした。しかし、この歌詞に出会って、割り切れないものがあってもいいんじゃないかなと。納得いかなくて、悔しい思いをしてもいいんじゃないか。そんな風に思えました。

 

そこから、僕はその曲を毎日の様にYouTubeで検索していました。

そこて引っかかったのが、"過去の自分に一通だけメールを送れるとしたら"でした。

このスレをスライド式にして、そこに"flumpoolの残像"を流す。そう言う動画でした。

気になった僕はそれを見た瞬間に、様々な感情が溢れて仕方がなかったのを覚えています。

この時に僕は、人の数だけ後悔がある事を知りました。

例えば、学校を休みがちな友達を急いで病院に連れて行け。

あの時、あの子はお前のことを待ってたんだぞ。とか。

本当に多種多様ですね。

そして僕は考えました。何が僕の後悔なのか。果たして僕に後悔はあるのか。ありすぎて何が後悔なのかもわかってないんじゃないか。それはもう色々と。

その時は、大変僕を可愛がってくれて、愛してくれた祖母が少し前に病で亡くなっていたので、もっと早く病院に連れて行くこと。僕がお願いしたら間違いなく祖母は信じてくれるから、一秒でも早く連れて行け。と言う内容で収まりました。

当たり前ですよね。誰よりも愛してくれた人の事を助けたいと後悔するのは当然です。

 

そして、そこから暫くは色んなことにハマりました。バンド。絵を描く。本を読む。女の子と遊ぶ。本当に色んな事を経験しました。

高校を卒業するまでも色々ありましたし、卒業して、就職した今でも。そしてこれからもあると思います。

今、僕は沢山の後悔を抱えています。スレに出会った時とは違い、遥かに沢山の後悔を経験しました。きっと僕にとってはどれもこれも重くて、深くて、悔しい後悔と言えます。

多分、後悔を実感したのはある程度大人になってからだと思います。

これを僕は勝手に"後悔の物心がついた"と言っています。笑

持論ですが、後悔って誰と比べるでも、分かり合うでもないものだと思います。

自分が後悔だと思えば後悔になり、口に出すものでもないので、きっと人間は本当の後悔を知るのが遅いんだと思います。

 

悔しいと思ったから後悔?傷付いたから後悔?他の事がやりたかったから後悔?あの時にああしていればうまくいったかもしれないから後悔?

 

僕が思うに後悔とは、その時に戻れたとしても、思う様にいかないかもしれない。同じ結果に終わるかもしれない。明らかに可能性は低い。

しかし、それでも、それを理解した上でももう一度挑戦したい。そう思う事こそが後悔なんだと思います。

あくまで本当に僕一個人の考えですが。

 

僕の中の後悔にはもう一つ意味があります。

読んでてもわかると思いますが、無理だと承知していてももう一度。そこに前向きではないにしろ、挑戦心があります。

戻ることが不可能だから後悔。しかし、それでも諦めていない気持ちもある意味後悔なんだと思います。

だから僕も多分、本当の後悔はまだ経験してません。それでも口先だけの後悔並べて行きていくと思います。

 

ここで、僕は過去の自分と未来の自分に言葉を残したいと思います。

 

過去の僕へ。

いじめられたり、いじめたり。涙を流したり、外には出さない怒りを心のうちで燃やしたり。出会ったり別れたり。

生まれて初めてああまで愛しいと思えた人とも上手くいかなくなって、離れたね。

悔しかったり悲しかったりで、何も手につかず、何も考えられず、何も感じなくなったよね。学校をサボったり、悪い事をたくさん調子付いて始めたり。馬鹿だのアホだの周りからたくさん言われたね。

でも、僕が馬鹿なのなんて僕が一番よく知ってる。きっと純粋だったから。単純すぎたから馬鹿を演じて、ろくでなしになったんだよね。最低になったよね。

勉強もろくにしないで、頭も悪いくせに、少し上手くいったことがあれば、嫌な事を一切やらず走った。そんで転んで傷だらけ。自分を傷付けたり、人を傷つけたり。

それでも。誰が何言っても、例え未来の僕が言ったとしても聞かないことなんてわかってる。

だから何も否定することも、消したいこともないです。

そのままでいいよ。当時は何もかも辛いだろうけど、早くいつもの馬鹿げた、変な向上心でここまで走ってこい。時間の流れや、他人の気持ちは変えられないけど、それでも走るのはやめるなよ。

今の俺は、そりゃ不満や不平はあるよ。人間として、人間と生きてるんだもん。そりゃしょうがねえ。

でも良いことも、楽しいことも、趣味もやりたい事もたくさんある。今はそれに向かって相変わらず走ってるよ。

人を信じる事をしなかった俺だから何を言っても信じないだろうけど、2つだけ。

お前はそこまで落ちぶれてねえよ。

あと、人生で一番だった人を超える人が近くにいて、彼女を想ってるし、俺を想ってくれてるよ。

だから何が変わるわけでもなくここにきな。

 

未来の僕へ。

今の僕の考えてる事、わかるよね。

走ってくから。君に期待なんかしない。

叶えるのは過去の僕と今の僕だから。君はその時の君が望む方に走って欲しい。遅くなっちゃうかもしれないけど、必ず行くから。

よろしく。

 

皆さんも機会があれば過去と未来に手紙でも書いてみてはどうですか?

きっといつ読み返しても、上手くいってなくても、叶わなくても、その時の自分の言葉と文字と想いは嘘じゃないはずだから。

 

以上!ばいび〜

 

 

 

 

 

 

 

言葉と文字ときっかけ

ここでは僕がブログを始めたきっかけをお話ししたいと思います。

幼稚園の頃の記憶は薄れていますが、小学校では全ての教科はテストで満点でした。国語、算数、英語、体育、家庭科。その他にも得意ではなかったのですが、満点は取れていました。

中学校に入学し、一年生の間はそれをなんとか持続させていましたが、2年生からだんだんとそれはうまくいかなくなって来ます。

それまであまり勉強と言うものをしてこなかったので勉強の仕方もわからずに日々を過ごしていました。その上授業すらまともに受けずに、寝たり友達と喋ったりと不真面目極まりない生徒でした。そして順位は下から数えたほうが早いほどに。

焦らなかった訳ではありません。しかし、焦ったところで何をすれば良いかわからなかったのです。

授業を聞こうにも、僕はとうに授業範囲からも外れていました。友達に聞いても説明が難しく、断念。もう僕に勉強面で残された道はなかったのです。しかし、国語だけは不思議と平均点よりも上を取っていました。なぜかはわかりません。勉強も、授業も何もしていないのに何故かできました。筆者の気持ちになる事が何故そんなに難しいのだろうと疑問に思うほどに。

不思議と絵を描いたり、言葉を文字にするのは好きでした。書記や遠足のしおりの作成、文化祭の看板のデザイン。色々を担当しました。

しかしこの時の僕は気がつきませんでした。国語が僕にとっての救いになることを。

なんとか高校を卒業し、第1回目の就職を果たしました。そこでもコミュニケーション力の高さから楽しい日々を送っていました。しかし、仕事の内容が僕に合わなかった為に退職。

そこから今の会社へと入社に至る訳です。

2回目の就職を果たし、心機一転、僕は何か今までとは違うことをしたくなりました。

そこで選ばれたのが小説を読むことでした。

誰に教わるでも、自ら学ぶでもなく、言葉の意味や漢字、物語の真意を容易く理解できました。そこから"理解"することがこんなにも楽しいことなんだと実感しました。

1年で100冊は読みました。

皆さんもそうだといいのですが、他への理解を超えた時、次は自分を理解したくなるのです。

僕は自分がここまで培ってきた経験と理解と言葉を文字にしようと思いました。

そう。それが小説を書くことになるきっかけです。

幾多ものも短編、長編を書き、これは趣味の範囲では収められなくなりました。僕の心は手を止めようとしないほどにアイデアや感情を生み出しました。

このおかげで僕は今も5冊の小説を並行的に描いていて、四苦八苦してます笑。

昔の夢は歌手になることでした。しかし、いつからか僕は小説を出版することが夢になっていました。

文字というのは捉え方一つでどんなニュアンスにも今にも捉えられます。だから、僕は読む人にとって様々な違いを生むような作品を書きたいと思っています。

そして、もう一つ、僕はライターになりたい。

簡単じゃないのはわかっているんです。でも、この足で歩いて、人と言葉を交わして、文字にしたい。大人になり、仕事をして、小説とのきっかけがなければ多分こんな2つの夢は見つけられなかったでしょう。しかし、1つの夢が消えたのも必然。ならば新たな夢に出会ったのもまた必然。運命と言うのは、気付かぬうちに繋がっているものです。今まで興味のなかったものも繋がっていれば、いつかは心を奪われます。一度離れても、何年経とうと再び巡り会えるものなんです。

 

僕は矛盾が好きです。

たとえ経験したことがなかったとしても、その経験者の気持ちになり、恰も自分が経験したかのような想いを書ければ、それはその人の中では真実になります。僕は素敵な矛盾を書く人間になりたいです。

どんなに大きくて、現実味のない夢でも、口にした者勝ちです。

言葉は、文字は、良くも悪くも大きいです。凄く。人の人生を変えられる程に。

 

中学の頃によく読んでいた週刊少年ジャンプという雑誌があります。皆さん、大好きですよね?笑少年のバイブルですから。

いつか、そのジャンプのポスターが貼ってあったんです。

そこにはこう書かれていました。

 

「夢は、口に出すと強い。」

 

「1968年の創刊号からずっと、

ジャンプの主人公たちは

絶対に叶えたい目標を、

堂々と口にしつづけてきた。

それは、誓うことで、

志を共にする仲間と

一緒に困難を乗り越えられると、

彼らが信じてきたから。

さぁ、一年のはじめに、夢を語ろう!!

どんなに小さくたっていい!

ためらわず、ハッキリと口に出す!

きっとそれが、

君の願いを前に進める力になる!!」

 

出典:読売新聞から
  「少年ジャンプ」より

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こんな言葉を、文字を見てしまった僕はまんまとたぶらかされました。笑

だからここで宣言します。

 

「僕は小説を世に送り出し、ライターになる。」

 

道は見えなくとも確かにそこにある。

ないのなら野原を踏みつけて道を作る。

皆さんも本気でぶつかっていける何かに出会えるきっかけがありますように。

 

以上!ばいび〜

 

 

怖い話

タイトルを見た瞬間、「えぇ…。」なんて引いたと思います笑。思わせぶりなタイトルなんですが、心霊系やオカルトチックなものではありません。

f:id:kenkun83lamer:20180330101953j:image突然ですが、皆さんの怖いものって何ですか?

考えただけでも結構な数あるんじゃないでしょうか。

今回は、怖いもの、怖いことについて話します。

まず、僕は上司が怖いです。そして、仕事が失敗したらと思うと怖いです。他にも沢山あります。

僕は上司が怖い。しかし、実際は上司は怖い人ではありません。だけど、何かミスをした時、もしかしたら怒られるかもしれない。そういった恐怖があります。

皆さんも嫌ですよね?怒られるのは。

ここで僕がいつも恐怖に負けそうな時にやっている方法を伝授いたします。

まず、大きく抽象的に、仕事に行きたくない。仕事が嫌だ。とします。

ここで、じゃあなぜ仕事に行きたくないのか。なぜ、仕事が嫌なのかを考えます。

早起きが嫌だ。仕事に行くまでの道が寒い。暑い。満員電車が嫌だ。でも途中で会える犬はかわいい。だけど、会社では仕事をしなくてはいけない。じゃあなんの仕事が嫌で、なんの仕事が好きなのか。その理由。

長くなるので割愛しますが、全ての嫌だには理由があります。

しかし、それを恐怖心から直視できないのです。

でも勇気を持ち、一歩だけ踏み込んで考えて見てください。

マトリョシカと一緒です。最初は大きい悩みでも、一つ一つ理由を考え、分析して、直視しようとすれば段々と殻が外れて行き、最後には小さな悩みしか残りません。

人間というのは、知らないもの、怖いと思い込んでいる対象から知らず知らずに目を背け、頭の中で勝手に肥大化させて行く生き物です。しかし考えてください。皆さんにもあるはずですよ?

「あれ?やってみれば意外と…。」

なんて経験。それと同じです。確かに苦手なもの、怖いものを直視するのは誰だって嫌です。しかし、頭の中で肥大化した恐怖は誰に何を言われようが、自分からその殻を破らないと克服はできません。逆に、人から何かを言われても自分で殻を破れば克服は比較的、容易いと言うことです。

 

では、最後にこれを読んでくれた人に一つ課題です!

内容は、「何か怖いもの、苦手なものの理由を考えて、告白する。」です!

何年かかったとしても、やり遂げるに値するものだと思います。

僕も野菜を食べれるように頑張るので、みんなも頑張りましょう。

 

以上!ばいび〜

 

喧嘩といじめ[⚠️閲覧注意⚠️]

喧嘩って誰でも一度はしたことがあると思います。

親であれ友達であれ、見知らぬ人とだって。

じゃあ喧嘩の理由って覚えてる?大抵の場合、仲直りした後は喧嘩の理由なんて忘れてしまっているもの。

そもそもあの時はどうしてあんなことで喧嘩したのか。どうしてあの時にあんなことを言ってしまったのか。後悔する人は少なくないと思います。

じゃあどうやって仲直りしたのか。

ごめんねと素直に謝ったり、何か許してくれそうなきっかけを探しますよね。恋人ならケーキを買って行くとか、友達なら一緒に遊んでていつの間にやら。親なら一緒にご飯食べてて。

僕は、喧嘩って対等だからできるものだと思うんです。

立場はそれぞれ違います。親子、先輩、先生、恋人、男女。様々なカテゴリーの中に僕たちはいます。それは決して侵害してはならないものだとも思います。恋人や友達ならまだしも、親子は親子以上の立場にはならないし、先輩や上司。これに限っては生きている限り、いや、亡くなってもこの境界線がなくなることはないと思います。

でも対等って言うのは現実的な立場じゃなくて、心の問題です。例えば、この人は先輩で、尊敬もしてるし、お世話にもなってる。そして言いたいことを言い合える関係。先輩も、こいつは後輩で、自分の意見を持ってる。そして親しみやすくて仲がいい。だから可愛がってるし、言いたいことを言ってきても自分の意見を返せる。

二人がこうして心で思い合えた時にこそ対等って関係になれるんだと思います。

個性や意見って言うのは、礼儀や作法、尊敬の上に成り立つものだと信じています。

尊敬ができない、基本が成り立っていないのに個性を出す。それは個性じゃなくてただの自己中。古いものを取り入れ、尚且つ新しいものを作るのが個性だと思います。

挨拶もしないで話はできないですよね。

だから、喧嘩もお互いが尊敬しあって、その上で真っ向からの意見が対立したときにこそ起きるものなんだと思いますね。

 

じゃあ次はいじめ。

いじめとはお互いに対等な関係を築けずに、一方が高いところから、もう一方は低いところからの対立の事をいじめだと思っています。

心だけじゃなくて、表面的にもまだ見て取れますよね。

強い人が弱い人をいじめる。それはきっとお互いの心のバランスが取れていない証拠なんです。

昔から言われてきていますよね?いじめはいじめた方も悪いが、いじめられる方にも問題がある。

みなさんはどう思いますか?これは賛否両論で、どちらかの意見を口にすると炎上や論争を生むきっかけの一つです。

しかし、僕はあくまでもいじめられる方にも問題があるわけではないと思います。昔、いじめっ子に聞いたことがあります。

「どうしてあの子をいじめるの?」

するといじめっ子はこう言いました。

「だってあいつなんかムカつくんだもん。暗いし、ブツブツなんか言ってるし、気に食わない。あいつがわるい。」

確かにいじめる方にも何かの理由があるかもしれません。しかし、なぜ相手の事情を知ろうともせずに排除しようとするのか。

では、弱者は強者の言い分に従い、全てを変えなければならないのか。

そんなはずはありませんよね。だってそれはその人のマイノリティーなんですから。人から言われて、ほいほい変えられるなら苦労しませんよね。

でも、いじめている方に相手をいじめていると言う自覚がない人がいます。いじり、だったり、じゃれ合いのような気分の人が多々います。それってただのいじめと言うよりは勘違いから始まるいじめですよね。こればかりは、いじめられている側がやめてと言うことで治る可能性もあります。しかし、言えない人もたくさんいますよね。言えないからいじめられてる事があるのも知っています。

なら、周りが言えばいい。やめとけよ。とか、かわいそうだよ。とか。

僕が、いじめで一番悪いのはいじめを認知していて、しかし何もしない周りの人間だと思います。悪い言い方をしますと、いじめる勇気もないからいじめっ子の態度を見て、スッキリとする人間。

止める勇気を持たず、告発する事さえしない人間。心のうちでは自分じゃなくてよかったと思っていますよね。罪悪感に押しつぶされながら、でも止めずに。

 

僕は、いじめは無くならないと思います。

ニュースで連日やってますよね?いじめの問題や、それを隠してきた学校。救われなかった命。でもね、人類っていう動物視点から見ると、弱いものは強いものに弾圧され消えていくのが普通なんですよね。それが本能ですし。

弱肉強食はどの世界にもあります。全てが全て手を握って共存、尊重は無理な話だと思います。

戦争だって同じです。日本は今、戦争をしてないですよね?でも、じゃあなんで武器があるのか。戦闘機が存在するのか。

それはいつ責められても自国を防衛するためです。と言うことは、態度で戦争は無くならないと言っているようなものですね。アメリカやロシアは核を持っていますが打ちません。それはあくまでも抑止力として置いているにすぎませんから。

真の平和は抑止力が存在しません。お互いに、犬のように腹を見せ合っている事こそが信頼なんだと思います。

でも、みなさんは知らない人の前で油断して財布も何も置きっ放しでなれますか?

そう言うことです。なくなりません。戦争もいじめも。

じゃあどうすればいいのか。そんな事は僕には到底回答しかねます。僕が考えている事は遥か昔に考えられ、実行されているはずですから。

できる事は、いじめを犯罪とする事だと思います。しかし、そうした場合、何がいじめで、何がじゃれ合いかの境界線が曖昧になり、冤罪や陥れる。と言った事が出てきてしまいますね。

 

じゃあ何が言いたいか。それは、この記事を読んだ人は考えて下さい。そして行動して下さい。自分なりの考えある優しいコミュニケーションで話し合いましょう。喧嘩といじめは全然違います。勘違いしないで下さい。自分の定規で相手を測るのは愚かな行為です。

僕もいじめられたこともあり、いじめたこともあります。今となってはそんなことをするよりももっとコミュニケーションを取る方法を知っています。やっぱりお互い笑って話す方が楽しいですから笑

 

いいですか?いじめは悪です。犯罪です。

 

以上!ばいび〜

カメラ

お題「カメラ」

カメラはとっても人間の情操教育に役立つものだと思う。

使う人ひとりひとり、その数だけ作品が生まれる。花を撮ってもいい。人を撮っても建物を撮ってもいい。恋人や家族、自分を撮る事だって尚良い。作品を創り上げると言うのは何にも代え難い経験だ。

しかし、勿論問題点もあげれる。それは、近年ますます増加の一途を辿っている盗撮。

本来なら人生に彩りを加えるための物を、人を汚すために使う事は卑劣極まりない。

そして僕が一番に伝えたいことが一つ。

"カメラは他人と競うものでは無い"

という事だ。

個性という言葉がある。それと同じで感性などは人それぞれ違うものだ。100人の人がいるとする。70人がいいと評するものがある様に20人がいいとするものもある。そして6人がいいとするものもあれば4人がいいものとするものもある。所詮は多数決。そんなものはあってはならないものなのだ。

写真を撮るにあたって、一番重要なポイントは本当にそれが撮りたいものなのか。なのである。

昨今、カメラはより安く購入でき、また、スマホのカメラでも本物のカメラと見間違うほどに高画質、高品質な写真を撮ることができる様になった。とても便利なことだ。

人が写真を撮る理由は様々だ。友達と会った記念。家族で旅行に行った記念。恋人とデートをした記念。ここには沢山の記念がある。

しかし、それと同時に本当に撮りたいものがわからなくなってきているのではないか?

友達に自慢したいから。みんなが撮ってるから。誰かに見て欲しいから。

僕もそうなのだが、撮りたいものから、撮らなくてはならないものに変わりつつあるのではないだろうか。

カメラとは、写真とは、インスタやツイッターなどのSNSで承認欲求を満たすためだけの道具なのだろうか。

僕が思うに、カメラを手に入れた人達の根底には、忘れたくない、この景色をいつまでも残しておきたいと思う願いがあったのではないだろうか。

誰も最初から、他人に見て欲しい。褒められたい。いいねが欲しい。そんな事は考えていなかったのではないか?

カメラとはただ単にどこまでも自分の為でいい。所詮は自己満足の世界でしかないのだ。

しかし、ここまで誤解を生む言い方をしてはいるが、僕が言いたいのは、誰のためでもなく自分のためにその瞬間を残して欲しいと思う。

僕はカメラを作った人間でもなければ、カメラの神様でもない。しかし、それでもわかる。これだけカメラが普及して、何兆枚、それ以上の写真ができているのだ。被らないわけがない。

それでも被ってもその写真が、自分が撮った写真が、誰か知らない人が撮った写真が自分にとっての最高の一枚であることが重要なのだ。

 

カメラマンという職業がある。カメラが好きな人は一度は夢見たことだろう。

しかし、炎上を恐れずに言うなれば、カメラマンとはカメラを持った人のひとりひとりがなれてしまうのだ。

どんなにお粗末なカメラでもいい。どんなにカメラに対して、写真に対して知識が乏しくてもいい。決して上手くない写真でも。

目はレンズになり、指はシャッター。頭はフィルター、その足は三脚になる。カメラなどは撮った写真を現像するための媒体だとでも思えばいい。主役はカメラじゃない、自分だ。

カメラを使い、写真を撮るのに必要なのは自分という概念と自己満足だ。

当然、自己満足を得るためにする勝手な破壊や創造は悪しきものだ。これを言うと捉え方によっては誤解されるが、僕らはルールの中では自由なんだ。

他人の評価とか流行なんてものは糞食らえだ。

大事なのは自分の中で満足いく瞬間だ。

そしてたまにでいい、世間から注目されるものじゃなく、道端に咲いた誰も見向きもしない様な花を撮って欲しい。足を伸ばさなくともアートは、最高の瞬間は見方によってはそこら辺に簡単に落ちているものだと気付いて欲しい。

自分だけの1いいねを探して欲しい。

合言葉は自由と自己満足。そして最高の一瞬だ。

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以上!ばいび〜

 

 

お花見

桜が咲き始めてから大体一週間位が経ちました。

皆さんはお花見や、桜道を散歩しましたか?

公園や河川敷にお座敷を敷いて、友達、家族、恋人、はたまた全く知らない人なんかとそれぞれで桜に浸りつつ楽しくやるのもいいですよね!

 

酒と飯 そこに加えて美男美女。粋でしょう 人情溢れる江戸の花!

 

格好つけるとまさにこんな感じ。現代日本の花の象徴ですね。

桜に興味がなくても、お料理や人との会話を嗜むのもまた一興です。恋が生まれて惚れた腫れたのシーソーゲームなんかもドラマチックです!

しかしながら、大変残念なことに毎年お花見中に酔って喧嘩を始めたり、ゴミのポイ捨てなどが目立ちます…。それでも毎年毎年ゴミ拾いや、公園、自然の整備をして下さる方もいます。その方々の汗と代償に我々は文化を得ているのです。説教する気は無いですが、もう少し大人の楽しみ方をしましょうね。

 

さて!今回は桜に関する小話を一つ。

知ってますか?実は昔、奈良時代の"花"と言えば桜ではなく、梅の花だったんです!梅もこれまたいい香りがして好きな人は少なく無いはずです!

当時、中国から伝来した梅は桜よりも香りを放ち、その上品な香りから、貴族たちから大層好まれていたそうです。

元々日本には無い花ですから、それだけでも希少価値があり、珍しいものだったのでしょうね。

しかし、894年に行われた遣唐使の廃止に際し、段々と梅の文化が薄れてきて、古来より日本で咲き誇っていた桜が人気を博したと言われています。

桜は寿命が短く、種類にもよりますが一週間かけて徐々に開いていき、一週間かけて散っていくのだとか…。

その生命力を感じる可憐さと、全身全霊で咲き誇る力強さ。そして、儚きを思わせる短命さが日本人の謙虚で憂う心に響くのでしょうね。

咲く前の青々しさもまた人間味がありますね。

散る時であれ美しく乱れる姿は女性にも重なります。(ごめんなさい)

咲く前よき。咲いてよき。散ってよき。

まるで人間の人生を象徴しているかのように、全てがよきで溢れています!ちなみに北海道では6月ごろまで咲いている桜もあるそうですよ。君の膵臓をたべたいで言ってました笑

そして!突然ですが、最後に稚拙ながらもここで一句!

 

春に咲き 夏には散って 秋に枯れ 冬を耐えきり 春に再び

 

以上!ばいび〜!

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自己紹介

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第一回目のブログ投稿です。自分の意志で始めたとは言え、初っ端から何を書いていいやら迷走しています…。

なので!今回は当たり前と言ったらそこまでなんですが、自己紹介をさせて頂きます。

 

え〜みなさん、初めまして。健太です。彼女からは健くんと呼ばれています。はい。どうでもいいですね。

年齢は今年の6月で21歳になる高卒社会人です。

趣味はCANONの一眼レフを携えての旅行やら散歩やらです。(自然も人も人工物もなんでも撮ります。)

それと、小説を書いてます。アイデアが止まりませぬ笑

あとは料理ですね。レシピを見ながらですが、その日に食べたいものを作るって感じです。

それから、一年半付き合ってる彼女がいます。

動物にも言えるんですが、僕はかなりの超が付く程の彼女バカです笑

基本的には趣味のことか彼女のことを考えて仕事してます。これは自信を持って言えます。

好きな食べ物は焼肉。特にカルビ。

お菓子も大好きですがマカロンは嫌いです。

洋菓子より和菓子。

嫌いなものは野菜と論理的な人。基本僕は論理より人情派です。

大抵のことは話したかな?それじゃ、自己紹介を勝手に終わります!笑これからよろしくね!